城中電鉄 

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10形

10形は城電の前身の城中軌道が開業した当初存在していた車輌です。

1921年、城中軌道が翌年に開業するにあたって、下回りなどをどこのメーカーに依頼するかを決めなければなりませんでした。
「城中市に新しくできる交通手段であるため、モデンなものが望ましい」、というのが城中市から寄せられた要望でした。
そこで、1920年に東洋電機と提携していたイングリッシュ・エレクトリック社(英国・デッカー社が改名)の技術を用いて製作されたDB-1形直接制御器およびDK-9C形主電動機(50HP、37.5kW)を用いることとしました。近年まで続いていた城中電鉄と東洋電機の関係はここから始まっていたのです。

車体は日本車輌製造東京支店が製造した12m級の木造車体で、クリーム色と赤の塗装をしています。これは、道路を巨大な物体が高速で(当時の制限速度は17km/hです)走行するというのは危ないという理由から視認性がよく、かつ自然に混ざらない赤色が選定されたようです。いや、決して当時の塗装責任者の趣味を全面的に採用したというわけではないのですよ。
車内はオールロングシートで、モケットは濃緑色を採用。座席の背ずりにもモケットが入っているという、当時としては非常に珍しい構造をしています。照明は火災防止の為に電球をカバーで覆うといった工夫がなされています。窓は二段上昇窓を採用しています。
台車は軸ばね式2軸ボギー台車であるBrill 76Eを採用。集電装置はシングルポールとなっています。主電動機は前述のDK-9C形(37.5kW)を2機搭載、駆動装置は吊り掛けとなっています。

そんなこんなで10形単車6編成で城中軌道は歴史を歩み始めました。
城中駅にはそんな10形を一目見ようと大勢の人たちが押し寄せました。沿道には露店が並び、昼には弁当の手売りをする商売人たちが来るなど、盆と正月が一気に来たような賑わいを見せました。
また、『城中電車唱歌』という曲が作られたりもしました。


▲城中電車唱歌。作詞者は不明ながらいつしか歌われるようになりました

1922年に城中軌道の開業とともに走り出した10形は、路線の新規開業と利用客の増加により最終的には14両という陣容を誇りましたが、1943年の金属類回収令により床下機器を回収され、本線に最低限残った5両のみの運行となってしまいました。
更に1945年5月の空襲で車庫から出ていた2両が被災、結局3両のみが終戦を迎えることができました。
その後、復員輸送に利用されましたが経年劣化と勤続疲労により故障が頻発、1947年に全車引退となりました。翌年までに1両を除き廃車となりました。
その後、引退から大分経過したある年、泰原車庫(現:泰原台車庫)の片隅に置かれていた車輌を淡島県歴史民俗博物館において展示したいという要望が寄せられ、城中電鉄が修繕し、屋内で展示されています。車籍はありませんが、元社員とその他有志が定期的にメンテナンスを行っているためか、保存状態は良好です。


英国で生まれた帰国子女の10形デース
……いやいや、英国製なのは下回りだけじゃないですか
バレましたか
(この人バレないとでも思ったのかな……)それにしても開業当時は凄い賑わいだったようですね
はい。祭りでもやってるのかという騒ぎだったようです
何か面白い話はありますか?
今だから笑い話になるのですが、乗車時に靴をホームに脱ぐお客さんが多発したそうです。なので、列車が発車するとホームには下駄が置きっぱなしになっていたようですね。そこで、各停留場には「靴を脱がずにご乗車できます」という注意書きを急遽作り掲示したそうです。それにしても下車する時どうしていたのかが気になりますね
電車に初めて乗るわけじゃないのに変なことするもんなんだね
いや、電車は初めてという人が多かったと思いますよ。何せ江坂道本線も非電化の時代ですから
ということは、城中市で初めての電化路線と言うことでしょうか
そういうことになりますね
城中軌道が町にできる時に反対運動とかなかったんですか? よく「鉄道ができると宿場が寂れる」とか言うじゃないですか
そういう記録は残ってませんね。むしろ逆に市自体が「城中軌道ができると産業が生まれる」と宣伝していたようです。現に鉄道事業という産業ができたのでその公約は果たしたと言えますね。城中軌道が誕生したことで私も社員になれたので万々歳です
この人を採用してよかったのだろうか……
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